2021年5月9日「一粒の麦、地に落ちて死なずば」

聖書:ヨハネによる福音書12:20〜26
説教題:一粒の麦、地に落ちて死なずば

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 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」この福音書の中でも、一つの決定的な言葉、中心的な福音の宣言です。あなたも、イエス・キリストという一粒の麦の実りです。自分という存在、自分の命に対するまなざしを新しくする福音の事実がここにあります。この春、教会の花壇に球根や苗などいろいろなものが植えられ、花を楽しみました。元々は一粒の種です。種が種のままでいたいと言い張ったら、花も実りも結ぶことがありません。イエス・キリストは地に蒔かれた種のように死にました。十字架にかけられて。キリストの命の犠牲の上に、私の命は存在している。それが、私たちの原点です。

 この事実をヨハネは既に第3章16節ではあの忘れがたい言葉で言い表していました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 今日のところで私が特に心惹かれたのは、このすばらしい福音宣言が、ギリシア人の訪問によってなされたということです。ギリシア人、つまりユダヤ人ではない外国人、異邦人です。今では考えられないことですが、当時、ユダヤ人以外には神さまを信じている人はいませんでした。あるいは異邦人が神を信じようと思うと、まずユダヤ人にならないといけなかった。ところが異邦人であるギリシア人たちでもイエス様のところへ行きたかった。直接行くことははばかられたのでしょう、フィリポに仲介を頼みました。フィリポといいう名前はギリシア風の名前だそうです。そういうこともあって相談しやすかったのかもしれません。それにしてもこのギリシア人たちはあまりよく分かっていなかったようです。フィリポに「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と言っているこの「お願いです」はそのまま素直に訳すと「主よ」という言葉。イエス様に向けるべき言葉を弟子のフィリポに向けている。しかし、イエス様は彼らが例え異邦人であろうとも、あんまりよく分かっていなくて誤解していたり勘違いしていたりしたとしても、彼らを待ち受けるようにして福音を告げたのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」私はあなたという実りを得るためにこれから死ぬのだ、と主イエスは宣言なさいます。

 25節を見ると、これからご自分が十字架に向かい、死を迎えることを「栄光」と言っています。普通、栄光というのは、オリンピックのメダルをもらい、表彰台に上がるようなことです。しかし主イエスが受け取ったのは茨の冠であり、上げられたのは十字架でした。普通に考える栄光とはかけ離れています。十字架で死ぬことをご自分の栄光と主イエスが言われるのは、その死によって私たちという実りを結ぶからです。この出来事によってイエスが神の独り子であると私たちが知るからです。

 25節に「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。もちろん、自殺の奨めではありません。私たちはキリストが結んでくださった命をどう生きるのか。主が私にしてくださったように、私も他者のためにするということでしょう。他者を愛して生きる。その原点は、キリストが一粒の種としてご自分を献げた愛です。

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