2021年5月2日「我らの王が来られる!」

聖書:ヨハネによる福音書12:12​~19
説教題:我らの王が来られる!

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 日本中会で私が所属している委員会で、今、カンバーランド長老教会の信仰告白の翻訳を見直す仕事をしています。先日、1.19というところを扱いました。こういう文章です。「神は、人間の行動と関係を治めるために道徳律法を与えられる。それは、宇宙という織物に織り込まれた正義の原理であり、すべての人を拘束している。」私はこれを読んで感動を覚えました。道徳律法というのは、私たちはどう生きるべきか、正しさとは何か、いかなる生き方が美しいのか、ということであろうと思います。現代はそういうことを考えるのがとても難しい時代です。価値観が多様化していると言えば良く聞こえますが、実際はひどく混乱しています。それぞれが自分の正しいと思うことにのめり込み、自分の正義感に従って他人を裁いています。多少なりとも良識を持っていれば、違うことを認め合って、それぞれの正しさを尊重しようと言う。しかし他方ではたこ壺のように似たような価値観の者同士だけの世界を作る。SNSは現代社会の縮図です。

 しかし、私たちの教会の信仰告白は、正しさはあると言います。美しい生き方は存在する。すべての人が共有できるような、誰でも喜べるような正しさ、美しさは存在する。これはこの世界に対する大いなる肯定の宣言だと思います。この世界は混沌ではないのです。それぞれが自分勝手な正義感に生きていれば良いのではない。宇宙という織物はタペストリーのように美しい模様を持ち、そこには神が折り込んだ正義の原理がある。そのように告白しています。

 神がお造りになった世界の正しさ、美しさを究極に表しているのは、イエス・キリストに他なりません。キリストはいかにしてそれを表されたのか。それは、軍馬ではなくろばに乗る美しさです。主イエスがエルサレムの都に入城した時のこと。民衆がなつめやしの枝を振って叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に。」王をお迎えしている。普通の王の凱旋は大きな軍馬にのり、兵士を従え、敵の捕虜をさらし者にして、力を誇示します。弟子たちもそれを期待していたことでしょう。何しろこの時イスラエルはローマ帝国に支配されていました。ローマをやっつけて自分たちを救ってくれるイスラエルの王を待ち望んでいたのではないでしょうか。多分、それは私たちとあまり変わりがないのだろうと思います。当時の地中海世界は「ローマの平和」と呼ばれる時代でした。ローマという圧倒的な「正しさ」が支配していた。それは自分たちの「正しさ」が押しつぶされるということでもあった。ローマの平和の下では自分の正しさは場所を持たない。文句も言えない。神の正しさが見えない絶望。そんな時に私たちが期待するのは軍馬に乗った救い主です。敵がいれば目にものを見せてくれる王、私の正しさを認めてくれる王。

 ところが主イエスはろばに乗る王でした。その意味について、聖書は旧訳のゼカリヤ書の言葉を引用して説明しています。ここで引用されているのは9:9ですが、続く10節も併せて読むと、ろばに乗る王は平和の王であると言われています。しかもその王は武器を捨ててしまう。倍返しでやり返す王、敵をやっつける王ではなく、武器を捨てる平和の王。ろばはそのしるしです。キリストが私たちに実現する平和は、赦しと愛が生み出します。この平和が私たちを救う神の正義なのです。

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