2021年4月11日「スケープゴート」

聖書:ヨハネによる福音書11:45~57
説教題:スケープゴート

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 山道を登っている時には目の前の道しか見えませんが、開けた場所に行くと周りの景色がよく見えます。晴れていれば太陽がまぶしく、これから上がって行くであろう山の頂を臨むことができる。今読んでいるのは、ヨハネによる福音書の中でもちょうどそういう場面であると思います。分量からしてもちょうど真ん中。第11章では、ラザロの復活というとてもあかるい光に満ちた出来事がありました。私たちの命を救う神さまの愛がはっきりとしたかたちを採って示された。そして、ここからこの福音書の頂きが見えるのです。いかなる頂きか、いかなる山をこれから登っていくのか?ヨハネはこのように書きます。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」さらに、祭司長たちはイエスを逮捕すべく、イエスを見つけ次第通報するようにという命令を出していました。更に続く12:1では「過越祭の六日前に」とありますが、あと一週間したらイエスが十字架にかけられるということを意味している。ここから登る山、それは主イエスが十字架へと向かって行く、その道に他ならない。この福音書は十字架へのイエスの道を丁寧に描いていくのです。

 イエスを殺そう。最高法院に集まった人たちがそう決めたのは、ラザロの復活の出来事があったからでした。たくさんの人がそれを見てイエスを信じた。彼らは怖くなったのです。ますますイエスは民衆から人気を集め、人が集まってくる。すると、自分たちを支配しているローマ帝国は反乱を企てていると誤解するかもしれない。そんなことになったらこのユダヤの国もろとも滅ぼされてしまう。一体どうしたら良いのか。すると、いちばん偉い大祭司が言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」つまり、これを口実にイエスを殺せば言い、そうすればローマへの忠誠心も示せるし、イエスがいなくなれば自分たちにとっても都合が良い、という言い分です。最高法院の議員たちはその言葉を喜んで受け入れたのでした。

 私はこの話を読むと本当に怖くなります。自分がもしこの最高法院に出席していたら…祭司長カイアファの言葉を、やはり拍手喝采して喜んだのではないかと思います。自分たちを守るために、誰か一人を犠牲にすればいい。誰かを犠牲にすれば全部が丸く収まるならやむを得ない。みんなの安心を、安全を守るために。作家のル=グウィンが「オメラスから歩み去る人々」という短篇を書いています。オメラスという完全にしあわせな町は一人の少女の犠牲によって成り立っている、町の人は皆それを受け入れている、という話です。背筋が寒くなる話です。自分と無関係とは言い得ないからです。誰か一人を犠牲にすればいいというのはいじめの構図です。醜悪な振る舞いです。ところが大祭司の醜悪で身勝手な発言を、彼自身が思ってもみなかった仕方で、神が実現なさいます。イエスは本当に国民のために死ぬ。さらに「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」。人間の身勝手や醜悪な罪を、神はその手の中に納めて、善に変えることができるお方です。イエスは人々の思惑通り、十字架にかけられて死ぬ。しかしそれは人間が予想したことを超えて、散らされた神の子たる私たちのための死だった。神の愛は人の罪を圧倒するのです。

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