2021年4月4日復活の主「命への呼び声」

2021年のイースター(復活の主日)を迎えました。

聖書:ヨハネによる福音書11:28​~44
説教題:命への呼び声

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 2021年のイースター、復活の主日を迎えました。先週一週間は受難週。イエスさまは2000年前の受難週の金曜日に十字架にかけられた。その歩みを覚えて、祈りつつ過ごしました。普段の年は集まって受難週祈祷会を行っていましたが、今年は月曜日から金曜日まで、毎日ビデオでメッセージを配信しました。主日礼拝の説教動画の配信を始めて一年になります。去年は4月12日がイースターでした。この日から、約二か月間、さがみ野教会は礼拝堂での礼拝を休止し、動画配信のみとなりました。この一年で本当にいろいろなことが変わりました。一年前は学校も休校、マスクも手に入りませんでした。その後もいろいろなことがあった。この一年で近所のお店が数軒なくなってしまいました。去年を境に、世界が変わってしまったようにさえ思います。

 イースターである今日もヨハネが伝えるラザロの復活の出来事に耳を傾けます。マルタ、マリア、ラザロの三人きょうだい。ラザロが病気で死んで葬られ、すでに四日も経ってからイエスが村にやって来ました。その知らせを聞いてマルタはすぐに飛んでいきましたが、マリアは家でうずくまっていました。しばらくしてマリアのところへ姉が戻ってきて、そっと耳打ちします。「先生がいらして、あなたをお呼びです。」この「いらして」と訳されている言葉ですが、もとのギリシア語では「側にいる」という字を書く言葉です。単にどこかからやって来たということではなく「イエスさまはあなたの側にいるよ」とマリアは耳にしたのです。

 私は、これこそイースターの福音であると思います。私たちを取り巻いている現実は、まるで受難週の土曜日のようです。主イエスは十字架にかけられたもういない、しかもいつまで待ってもイースターの朝が訪れない。だからマリアはイエスさまに訴えました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と。側にいて彼女を慰めていた人たちも泣いています。主イエスはそれを見て、憤り、興奮します。そして、涙を流します。それを見た周りの人たちは「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言います。そして、墓の蓋を開けろというイエスに、マルタは「主よ、もう四日もたっていますから、もうにおいます」と訴えます。マリアもマルタも周囲の人も、皆、受難週の土曜日でした。どんなに愛していても、もうどうすることもできない。泣くしかない。イエスさまの涙を見ても、やっぱりイエスさまにもどうすることもできないと諦める。そして「どんなに愛しておられたことか」と、愛を過去形でしか語り得なくなってしまう。死を前にして、神も愛も無力だと認めるしかない。その諦めを死臭が覆うのです。受難週の土曜日です。それは2000年前もコロナに慌てる現代も、何ら変わるところがない。同じ世界です。

 ところが、イエスはそんなマリアやマルタの側にいてくださいます。そんな私たちの側にいてくださる。心を激しく動かして。憤り、涙を流しながら、私たちにおっしゃるのです。「もし信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか。」そして、大声で呼びます。「ラザロ、出て来なさい!」このイエス・キリストの呼び声が世界を変えました。私たちは受難週の土曜日に生きているのではない。イースターの朝の光、キリストのいのちの光の中に生きているのです。

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