2021年3月28日(しゅろの主日)「命の福音を信じよう!」

聖書:ヨハネによる福音書11:17〜27
説教題:「命の福音を信じよう!」

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 もうすぐ92歳を迎えるあるキリスト者が去年の秋頃に書いたエッセイを読みました。今回のコロナのことについて、これは神の審きのひとつではないかと思うと述べていました。戦後、人間の営みは想像を絶する進化を遂げた。日本は人間の心身の能力と富の力を誇示するオリンピックを開催するはずだった。しかし肉眼では見えない小さなウイルスの蔓延によって、その力を誇示することはできなくなった。人間の弱さを思い知らされる。人間が全能ではないこと、人間が神ではないことを思い知らされた。そうならば自分の傲慢を恥じ、改めて謙遜を知る悔い改めの言葉、悔い改めの祈りがあってもよい。しかし、教会堂からそのような祈りが聞こえてこない。単に思いがけない、迷惑な災難としか考えられていない。やがてワクチンが普及し、元の暮らしを取り戻し、何事もなかったように元の生活に戻るだけ。これは一日も早く過ぎ去るべき災難でしかない。このような内容でしたが、ギクリとさせられる文章でした。

 こういう文章を読んだり、他にもいろいろなことがあったりした一週間でした。そういう毎日の中で今日の聖書の御言葉を黙想していました。17節ですが、「イエスが行って御覧になると」と書いてあります。原文を確かめてみると、この文章は「見る(発見する)」という動詞が主動詞になっていて、イエスが見たということが一番強調されている。何を見たのかといえば、ラザロを見た。ラザロが葬られてすでに四日も経っていることを、イエスは見たのです。主イエスはラザロの死をじっと見つめています。葬られたことに目を注いでいます。だからこそ、マルタやマリアの叫びに耳を傾けることができたのだと思います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」主イエスはマルタの深い悲しみや憤り、主イエスにぶつける怒り、全部を受けとめてくださいました。こういうふうにして真っ正面から死と向き合うということは、私たちの社会が忘れていることではないかと思います。しかし見えないようにしても、死は、自分自身にとってもまわりの人にとっても本当はごまかせない現実です。マルタもマリアも、まさにそういうところで泣いているのです。そして、主イエスはそれに真っ正面から向き合うのです。

 マルタの思いを全部受けとめながら、しかし主イエスははっきりと言います。「あなたの兄弟は復活する。」ところがマルタにはこの言葉が分かりません。いや、一般論としては、そういう教えであることは知っている。しかし、そんな一般論では今のマルタの悲しみをいやすことはできない。そこで、主イエスは重ねて宣言します。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」この「わたしは」という言葉はかなり強い言い回しになっています。このわたしが、わたしこそは、というニュアンスです。他の誰でもなくこのわたしこそが復活であり、命なのだ、と言われます。これこそ私たちが今日聞く福音の宣言です。私たちは必ず死ぬ、弱くて小さな存在です。しかし主イエスご自身がそんなわたしを救う命そのものでいてくださる。そのことを謙虚に受け入れ、信じましょう。もしコロナが奇貨となるとしたら、私たちが神の与える命に謙遜になることではないでしょうか。

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