2021年3月14日「あなたには何が見えるか?」

聖書:エレミヤ書1:11~19
説教題:あなたには何が見えるか?

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 朝、長女と二人で幼稚園まで歩いています。長女は花が好きで、道ばたやよその庭に咲いている花を愛でながら歩きます。今の季節はやはり桜がきれいです。私はあまりキョロキョロしながら歩く方ではなかったので、いろいろなものを見逃していたのだなと考えてしまいます。花を見ながら季節の変化を感じたり、庭を眺めて手入れしている人の姿を想像したりすることは、これまではありませんでした。

 預言者エレミヤはアーモンドの枝を見ています。アーモンドは桜と同じバラ科の植物で、春先になると桜と本当によく似たかわいらしい花を咲かせます。新共同訳の聖書では「アーモンド」という言葉の後にかっこ書きで元のヘブライ語の音を記しています。アーモンドはヘブライ語ではシャーケードと言います。この言葉とまったく同じ子音字で母音の発音を少し変えると「見る(ショーケード)」という意味にもなります。日本語に例えるなら、「優」に「やさしい」と「すぐれた」という二通りの読みがあるようなものでしょうか。アーモンドという言葉は「見る」という言葉と同じ字でできているのです。その枝を見ながら、エレミヤは神様の語りかけを聴きました。「私は見ている。あなたを。あなたたちを。わたしの言葉を成し遂げるために。」

 もう一つは煮えたぎる鍋を見ています。自分の家の台所か、道を歩いていて他の家の食事の準備を見たのか。いずれにしても、その鍋は北からこちらへ傾いていた。これはアーモンドのように穏やかではありません。北から災いが来るというしるしだと神様は言います。確かに、やがてエレミヤのいるユダ国はバビロンのような大国に苦しめられ、特にバビロニアには滅亡させられてしまいます。それらの国々は確かに北から攻めてきました。エレミヤはそのしるしを見たのです。

 私はここにはとても普遍的なメッセージが込められているように思います。11から13節の神とエレミヤとの対話です。神様とエレミヤそれぞれのセリフを直訳すると、このような具合です。「お前は何を見ているか、エレミヤよ。」「私にはアーモンドの枝が見えます。」「それは良い。この私が見ている。なぜなら、わたしの言葉を成し遂げるから。」そして、13節の神の語りかけは「お前は何を見ているか」。「私は煮えたぎる鍋を見ます。…。」新共同訳聖書と比較すると明らかですが、新共同訳ではそのまま日本語に移すと煩わしくなりすぎるので多くの人称代名詞を省略しています。しかし「わたし」「お前」という言葉が原文ではかなり強調されています。神様が「わたし」と言ってエレミヤの前におられ、「お前は何を見るか、エレミヤ」と言ってエレミヤを呼び、エレミヤ自身も「私は〜を見ます」と答えます。極めて人格的な対話が繰り広げられていると言えると思います。

 これに対し北からの脅威にさらされるユダ国の人々はどうだったのか。「(彼らは)手で造ったものの前にひれ伏した」と言われています。手で造った神々は、人間が好きな顔をさせられます。ある人は慈悲深い顔の神を求め、ある人は悪を打ち破る勇ましい顔の神を求める。神が好きなように処理できる対象に成り下がっている。神様はそこにユダの悪の急所を見ています。相手を自分の好きなようにあしらう世界にあって、神は私たちと向き合い、呼び合う、人格的な関係を望んでおられるのです。

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