2021年2月21日「羊のために命を捨てる」

聖書:ヨハネによる福音書10:11~21
説教題:羊のために命を捨てる

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 「わたしは良い羊飼いである」、主イエスさまはそう宣言します。ただの羊飼いではない、良い羊飼いです。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」今日の礼拝の招きの言葉は詩編第100編でしたが、そこには「私たちは主のもの、その民、主に養われる筆の群れ」という言葉がありました。主イエスは言われるのです、「わたしは、わたしこそ、良い羊飼いだ」と。

 羊飼いではない、ただの雇い人も登場してきます。彼は羊のために自分の命を捨てたりしません。オオカミが来たらすぐに逃げてしまう。正直に言って、私はこの辺りを読んで怯んでしまいました。自分の振る舞いはどうなのか、と思ったからです。この雇い人は利己的です。自分に損だと思えば逃げるし、他の人のために自分を犠牲にするようなことはしません。そう思うと、自分はこの雇い人そのものだとしか考えられません。苦しくなりました。

 しかし、一つの事に気づきました。主イエスは言われます。「私は、良い羊飼いである」と。この「私は」という言い回しには「この私こそが」という強いニュアンスがあります。この私こそが良い羊飼い。あなたたちの羊飼い。主イエスさまはそう言ってくださっています。ここには主イエスさまの優しさと強さが込められています。

 イエスさまはどうして羊である私たちのために命を捨ててくださるのでしょう。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」イエスさまは羊飼いとして羊ことを、つまり私たちのことをよく知っているからだ、と言われます。「知っている」。私は菅義偉さんという人のことについて、少しは知っています。秋田県出身で、横浜市議会の議員をして国会議員になり、今は総理大臣をしています。しかし、彼について知っていることはあっても、彼を知っているわけではありません。イエスさまが羊を知っているというのには「羊について知っている」も含まれているでしょうが、それだけではありません。父なる神さまがイエスさまを知っておられ、イエスさまが父なる神さまを知っているのと同じだと言っていますが、この場合の「知る」は、明らかに「愛している」と同じ意味です。神が主イエスを愛し、主イエスが神を愛するのと同じように、イエスさまは羊飼いとしてご自分の羊である私たちを愛している。そして、私たちの中にもイエスさまへの愛を見つけ出してくださっています。それだけ、私たちの羊飼いとして私たちをご自分の羊の群れとして愛している。

 私たちは、主イエスさまに養われる羊の群れ。私たちは主イエスに導かれる一つの群れです。さがみ野教会の礼拝堂は、日曜日と週日とで違う姿をしています。週日は子どもたちが遊んだり勉強をしたりするためにイスをかたづけて広くしています。金曜日か土曜日に、礼拝に向けて掃除をしてイスを並べ直します。手間はかかりますが、私は案外好きな仕事です。もうすぐここで礼拝が始まる。そう思うと身が引き締まります。羊飼いであるイエスさまに呼び集められた羊の群れが、主イエスさまの許に帰ってくる。それは今の状況下で自宅での礼拝を選んでいる人も同じです。主イエスさまは私たちを愛してご自分の養う羊の群れとして、今日、私たちを御もとに呼び集めてくださったのです。

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