2021年2月14日「私たちは知っている、羊飼いの声を」

聖書:ヨハネによる福音書10:1~10
説教題:私たちは知っている、羊飼いの声を

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 朝、娘と一緒に幼稚園に行くと、門のところで園長先生が待っていて「Aちゃん、おはようございます」と言って門を開けてくださいます。保育室に行くと、担任の先生が満面の笑みで「Aちゃん、おはよう」と言ってくださいます。門から入ると、そこは安全な場所です。強盗も盗人もいないし、もしも入ってきても先生たちが守ってくださることでしょう。それだけではなく、自分を愛して守ってくれる人がいるのです。自分の名前を呼んで、自分の存在を喜んでくれるのです。

 主イエスは私たちの羊飼い。私たちを守って、養ってくださいます。もし迷子になれば見つけるまで探してくれるし、私の名前を呼んで、私という存在を喜んでくださいます。

 聖書には羊や羊飼いがよく登場します。それだけイスラエルの人たちの生活に身近な存在だったということであろうと思います。私も、先日羊を見に行ってきました。牧場で草を食んでいました。牧場では餌やり体験ができるので、子どもたちが乾いたトウモロコシやらを手にのせて食べさせていました。羊はとてもかわいい動物です。私たちの生活では必ずしも身近ではありません。しかし、この話は羊がすぐ側にいなくてもよく分かります。それは、これが羊の生態の話ではなくて、羊飼いの羊への愛の話だからです。この羊飼いは一匹一匹の羊に名前を付けています。この羊はペットではなく家畜です。しかしその羊は羊飼いにとっては単なる商品ではなく、かけがえのない愛する一匹なのでしょう。イスラエルでは羊の囲いというのは石垣だそうです。羊飼いの側にいれば安全です。狼からも、盗人からも守られています。羊飼いがそこにいて自分を愛してくれているから、心配は何もない。羊飼いの愛が、すべてを守っているからです。

 主イエスは、羊は羊飼いの声を知っていると言われます。だから他の人の声にはついていかない。実際の羊と羊飼いの関係がどうなっているのか私は詳しくは分かりません。ただ先日私が牧場に行ったときの羊たちは、辺りの草よりも子どもたちが差し出したトウモロコシに群がっていました。味を占めてしまっているようです。私たちにも、もしかしたら主イエスの言葉よりも自分の心を支配してしまっているような言葉があるのかもしれません。

 いのちのことば社が発行している『百万人の福音』の2月号で「がんばらないと愛されないのですか?」という特集を組んでいました。「コロナ禍で、学校で、職場で、家庭で、教会でも…とにかく『がんばって』いませんか。がんばることは悪いことではありません。でも、がんばらなくては人は、そして神様さえも愛してくれない、そう考えているとしたら、何か違うのかも?」という一文から始まっていました。そして、がんばる会社員、がんばるお母さん、がんばる学生の姿を描きます。みんながんばっている。がんばらないと自分に価値がなくなってしまうと思ってしまってはいないでしょうか?でも、いつの間にか、神様のみわざを待ち望む余地を失ってはいませんか、と問いかけていました。「がんばる」は、時に私たちの心を奪う言葉です。私たちに響く主イエスの御声に、耳を傾けてみましょう。羊は、ただただひたすら羊飼いに愛されているだけです。ただ一方的に羊飼いが羊を愛し、命を得させるのです。私たちはキリストに養われる羊たちです。

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