2021年2月7日「神に呼ばれて」

聖書:エレミヤ書1:4~10
説教題:神に呼ばれて

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私が教会と関係のないところで出会った人に自己紹介をして、牧師ですと言うととても驚かれます。たいていは牧師なんて初めて見たと言われます。どうしてまた牧師になんてなろうと思ったのかと聞かれることも多い。その道を進むことになった経緯や出来事を話すこともできますが、一番決定的なことは、神さまに呼ばれたからです。そうとしか言いようがない。召命と言うこともある。自分の生きるべき使命に召される、という意味です。牧師になりたいという気持ちが私の中に生まれたこと、そう考えるに至った出来事、それまでの私の人生の経緯やたくさんの出会い、その後の葛藤など、それらすべてを通して神さまに呼ばれたと私は信じています。それは牧師だけの話ではありません。自分のこれからの生き方を考える機会があるなら、誰でも、自分は牧師になるかどうかを一度は考えて頂きたい。牧師・伝道者ではない人生を生きるのなら、自分は牧師ではなくこの道へ神に呼ばれているという確信を抱くことが大事だと私は思っています。

神さまが呼んだ。大切なことは、神さまが主語だということです。私が選んだ、私が決断した。それももちろん大切ですが、一番大切なことは神さまが呼んだ、という事実です。今、この人生に私を呼んだのは神さまです。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
母の胎から生まれる前というのですから、気が遠くなります。ところが神さまは、私たちがまだ存在もしていなかったときから私たちを知り、選び、預言者として立てた、と言うのです。選んだのは私ではありません。神さまです。神さまがあなたを選んだのです。

誤解しないで頂きたいのは、預言者というのは牧師のことではありません。神さまを信じる人は皆預言者です。預言者というのは未来のことを言い当てる人のことではない。聖書では「預言」を「言葉を預かる」と書きますが、神さまがこの世界に語りかけるために、私たちに言葉を預けている。そのために、この時代、この国にあってこの私を神さまが選んだ。それは、私たちが生きる場所に神さまの言葉を届けるためです。私たちが生きている学校や家庭、隣近所、職場、そういったところに届けるための神様の言葉を私たちが預かっているのです。

今日から旧訳聖書のエレミヤ書を読み始めています。エレミヤという預言者は紀元前627年頃から活動し始めたようです。今から2600年前、イエス・キリストの時代から見ても600年も前です。その時代のパレスチナという特定の場所と文化の中で生き、神の言葉を届けた。そう考えるとずいぶん遠い話のように聞こえます。しかし他方ではこのエレミヤ書を読むと、私たちと同じ感情を持っていることにも気づきます。例えば、エレミヤは神さまから呼び出されたときに、すぐに「分かりました」とは答えませんでした。彼は、私はまだ若いから無理ですと言います。エレミヤは強い人ではありません。弱くて経験不足です。しかし神さまはそんなエレミヤに、そして私たちに言葉を預けます。その言葉は、新約聖書の時代を生きる今の私たちの言い方で言えば、十字架の言葉です。キリストの福音を私たちの口に神さまが預けている。この言葉のために、あなたも神に呼ばれています。

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