2021年1月31日「外」での出会い

聖書:ヨハネによる福音書9:35~41
説教題:「外」での出会い

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 「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった」と、今朝の聖書の御言葉は始まっています。実は直前の34節にも「(ユダヤ人たちは)彼を外に追い出した」と書かれていて、「外に追い出す」という表現が連続しています。それだけに、大きな意味を持つ言葉なのだと思います。それは何なのか?この箇所について学者たちが書いているものを読むと、すぐに見つけることができる。この「外に追い出す」という言葉には、恐らくヨハネがこの福音書を書いた時代が反映されている。その頃、ヨハネたちキリスト教会の人々は実際にユダヤ社会から外に追い出されていた。イエスが子なる神、救い主だと信じるキリスト教会はユダヤ社会で居場所を奪われ、村八分にされていた。恐らくヨハネは主イエスと出会って見えるようにして頂いたこの人の姿に、自分たちの姿を重ねていたのだろう、と説明されています。そうなのだと思います。

 私は「外に追い出す」というこの時の出来事を思い巡らしていて、いろいろなことを考えてしまいました。中学生の時のことです。3年生の時。今思い出せば、もしかしたらそう長くないこと、一時的なことだったのかもしれませんが、私はそれまで仲がよかったはずの同じクラスの同じ班の人たちから仲間はずれにされたことがありました。修学旅行もその班で行かなければいけなかったので、いやだったことを覚えています。友だちって意外と頼りにならないこと、でも失うと本当に淋しいこと。あのときはいろんなことを感じたような気がします。それは私の小さな経験ですが、外に追い出されることは、誰にでも何らかのかたちで突然身に降りかかるものだと思います。

 例えば病気になったとき。もちろん誰も仲間はずれにはしないかもしれません。しかし、それまでは当たり前だと思って享受していた社会のシステムに乗れなくなってしまうことは間々あります。あるいは子育て。子どもが与えられて無事に産まれて育てることができるのは本当に嬉しい出来事のはずなのに、なぜこんなに孤独なのか。自分は社会から取り残されている気がする。誰かに追い出されなくても、当たり前と思っていた社会の内から外れること、否応なく外されることは、往々にして起こりうる。そうすると、世界の中にいたときには気づかなかったこと、見えなかったことが見えるようになります。ユダヤ人社会から外に追い出されたあの見えなかった人は、自分が所属していた集団が理不尽にも障がい者に罪人のレッテルを貼り、社会について行かれない者を簡単に排除する不寛容な有り様だったと身をもって味わうことになりました。そんなとき、私たちはとても孤独になります。
 しかし、外に追い出された私たちに出会うたいと、イエスは私たちの前に来ておられます。そして、あなたに尋ねるのです。「あなたは人の子を信じるか」と。

 私がイエスさまを信じて洗礼を受けたいと思ったのは、中学三年生の時でした。あの出来事がきっかけになったわけではありません。しかし、イエスさまは私たちに出会いたいと熱望しているので、あのようないやな事にも何らかの意味を与えたのかもしれません。外で、私と出会うために。「主よ、私も信じたいのです。」そう答える私たちに主イエスは言われます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話をしているのが、その人だ。」あなたは今、キリストと出会っているのです。

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