2021年1月24日「澄んだ目と濁った目」

聖書:ヨハネによる福音書9:13~34
説教題:澄んだ目と濁った目

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 今日の説教題を「澄んだ目と濁った目」としました。ここには前に目が見えなかった人、そして彼を取り囲むユダヤ人たちが登場しています。盲人だった人とユダヤ人たちは同じ現実に直面していました。しかし、同じものを見ているようでありながら見ていなかった。その対比がとてもはっきりした出来事だと思います。

 目が見えなかった人。彼は道ばたに座って物乞いをして生きていました。しかしイエスがつばでこねた泥を彼の目に塗り、池に行って洗うように言った。言われたとおりにすると目が見えるようになります。周りの人たちは驚きました。それで、ファリサイ派というユダヤの偉い先生のところに彼を連れて行きました。ユダヤ人たちは事の次第を聞き、たいへんな問題に気づきました。その日は安息日だったのです。安息日には仕事をしてはいけない。当時既にしてはいけない仕事のリストが39もあって、土をこねることもその一つでした。元盲人の話が本当だとしたら、イエスは大切な安息日の律法を破ったことになる。しかし、安息日の律法を破るような罪人に生まれつきの盲人の目が見えるようにするなどという奇跡を起こせるはずがない。そこでユダヤ人らは彼が盲人だったというのは嘘だと考え、彼の両親を呼び出して詰問しました。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親はユダヤ人が怖くて「本人に聞いてください」といって逃げてしまいます。それで、目が見えなかった人が言うのです。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、ユダヤ人たちは彼を口汚く罵り、イエスなど何ほどの者ぞ、我らは由緒正しきモーセの弟子だと主張する。しかし目が見えるようになった彼は、自分に起きた出来事、つまり目が見えなかった自分が見えるようになったという事実があるのだから、この人は神のもとから来たに違いないと証言する。するとユダヤ人は怒り、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って、ついに彼を外に追い出してしまいました。

 同じ現実を目の当たりにしていたはずです。生まれてから一度も見えたことがなかった人が、今では見えるようになった。しかし、ユダヤ人たちはその事実を見ようとはしませんでした。なぜか。実は、目の前で起きている現実を見ようとしていなかったのだと思います。彼らが見ていたのは、安息日の律法は絶対だという信念です。あるいは、生まれつき目が見えないこの男は、生まれついての罪人だという思い込みです。だから、この人の言葉も、イエスのしたことも信じることができなかった。自分の信念や思い込みが邪魔をして、目の前で神さまが働いているのにそれを見えなくさせていたのです。目が濁っていたのです。

 1月22日に核兵器禁止条約が発効されました。現在51の国と地域が批准し、更に86の国と地域が批准する意思を明確にしているそうです。しかしアメリカやロシアを初めとした核保有国、そして日本のような核の傘の下にある国は参加していません。日本政府は「核保有国が参加していないことから核軍縮をめざす上で現実的ではない」と言っているそうです。そのことを伝えるNHKのニュースサイトで、2019年にローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが広島でした講演の一節が紹介されていました。「核兵器を使うことも持つことも倫理に反する」。

 それを読んで、私はフランシスコが同じ訪日中に長崎の爆心地公園でしたスピーチを思い出しました。軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があるとし、このように言います。「どうか、祈り、合意拡大のたゆまぬ追求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く『武器』でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。」そして、教皇はアッシジのフランシスコの祈りを紹介します。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみがあるところに愛を、
いさかいがあるところにゆるしを、
疑いのあるところに信仰を、
絶望があるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

 核兵器禁止条約は核軍縮をめざす上で現実的な方法ではないと言う人もいます。しかし、本当に現実的な道は何なのか、もう一度考えたいと思います。この一人のキリスト者が見ているものは一体何でしょうか。

 イエスに目を開いて頂き、あの人は見えるようになりました。この人の言葉を読むと、彼が少しずつ「見える」ようになっていく様子が分かります。最初はイエスがどこにいるのか分からない。しかし次第にイエスは預言者だと言い、最後にはあの方は神のもとから来たと証言するに至ります。彼はイエスと出会うための目が開かれていったのです。神が働いていることが見えてきたのです。私たちは神が働いておられる現実を見ているでしょうか。神は今日も生きて働いておられる。その現実を信じるなら、祈ることができます。「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください」と。神は今日も生きて働いている。この現実をしっかりと見つめましょう。

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