2021年1月17日「あなたは何を見つめて生きるのか?」

さがみ野教会の主日礼拝の説教動画です。

聖書:ヨハネによる福音書9:1~12
説教題:あなたは何を見つめて生きるのか?


音声


動画



 「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」ヨハネはここをとても特徴的な言い回しで報告しています。日本語で「目の見えない人」を一言で言うのなら、「盲人」という言葉があります。ここにもギリシア語の「盲人」にあたる言葉が使われているのですが、それだけではなく、「人間」という単語も添えられています。イエスは盲人である人間をご覧になった。少ししつこいような書き方をしています。しかし、イエスが見ておられるのは一体何かを端的に伝える言い回しであると思います。

 すぐ側にいた弟子たちは、同じ盲人を見ていながら、イエスとは違う風景を見ていました。彼らはイエスに尋ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」こういう考え方を「因果応報」といいます。自分がしてきたことの善悪によって、今の自分の幸不幸の応報がある。更に広がれば親や先祖の行いによって自分の幸不幸が決まる。あまり大げさな言い方をしなくても、多くの人が素朴に持っている考え方です。大事な日にいつも天気が悪いのは、行いが悪いからではないか。ひどい病気になったり、いつまでもそれが治らなかったりするのは、自分の行いの悪さをちゃんと反省していないからではないか。どこにでも溢れている呪いの言葉です。そのためにおかしな宗教が生まれてくることもある。不幸から抜け出すために高額のお布施を求めたり、自分の人生を生きることから目をそむけさせたり。人の弱みにつけ込みます。主イエスが見ておられたものが、私たち見えなくなってはいないでしょうか。主イエスは「人間」を見ていました。盲人だという現象ではなく、そこにいる一人の人間を見ました。ところが因果応報という人生観が呪いのように私たちを縛ると、ここにいるはずの人間の痛みや悲しみ、喜びやしあわせが見えなくなってしまうのです。

 イエス・キリストは宣言します。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」力強い解放の言葉です。私たちには自分の力ではどうすることもできないことや、理不尽なこと、謂われなき苦しみや悲しみがあります。もしも冷たいものを食べすぎてお腹を壊したのであれば、これから注意すれば済む話です。しかしそれが例えば生まれつきの盲目のように自分の力ではどうにもならないことだったら?自分の行いが悪いのでしょうか。両親でしょうか。もっと前の先祖でしょうか。誰のせいということであったとしても、結局そういう考え方は過去にしか目が向けません。あれがいけなかった、これがいけなかった。それを解決するためにどうやって善行を積めば足りるのか。

 ところがイエスはそうは言わない。「神の業がこの人に現れるためである。」この言葉は私たちの目を将来に向けさせます。神の業が現れるために。イエスは彼のために地面につばをし、泥をこねて目に塗り、池の水で洗わせました。イエスの指が彼の目に触れた。その指の暖かさを感じ、やがて彼は見えるようになった目でイエスを見つめることになる。その目でイエスを見つめて、生き始めた。あなたは何を見つめて生きますか?イエスの指はあなたのまぶたにも伸ばされています。

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