2021年1月10日「憐れみ深いキリストに近づく」

さがみ野教会の主日礼拝の動画です。
今日は今年の教会のテーマについての説教でした。

聖書:ヘブライ人への手紙4:14~16
説教題:憐れみ深いキリストに近づく


音声


動画



 イギリスにミステリ作家のドロシー・セイヤーズという人がいました。ウィムジイ郷シリーズを書いた人で、英国ではアガサ・クリスティと並ぶ存在のようです。この人が『ドグマこそドラマ』という本を書いています。原題は”Creed or Chaos?(教理か混沌か)”。ドグマには教理という意味の他に「独断的な考え」という意味もあり、あまりよいイメージの言葉ではないところがある。しかし、セイヤーズは、現代の教会がつまらなくなってしまったのはドグマに固執しているからではなく、ドグマを捨てたからだ、と言います。ドグマは、本来は心が躍るようなキリストの救いのドラマなのだから、と言うのです。

 私がセイヤーズの言葉を思い出したのは、今日与えられた聖書の言葉の中で「わたしたちの公に言い表している告白」という言葉があったからです。面白い表現です。告白というと、普通はとてもプライベートな出来事です。愛の告白であれば、二人きりの関係での出来事でしょう。しかし、公に言い表した、と書かれています。何のことか?恐らく、洗礼を受けたときの信仰告白です。あるいは私たちの礼拝でいえば、使徒信条による信仰告白です。信仰の告白は、実はプライベートな心の問題ではなく、公のこと、パブリックな出来事です。そして、そこで告白している例えば使徒信条のような告白は、セイヤーズに言わせればすばらしいキリストのドラマです。このドラマをしっかり告白し続けよう、と呼びかけている。なぜなら、このドラマは、私たちが試練の中での自分の弱さに苦しむとき、そんな私を救ってくださるキリストのドラマだからです。キリストのドラマが私たちを弱さや試練から守ってくれるのです。

 奇しくも、今日は二度目の緊急事態宣言が出されて最初の日曜日です。まさに、私たちには試練の日々が続いています。とても辛いことです。自分の弱さを痛感しないわけにはいかないし、その弱さは自分だけのことではなく、社会全体が弱くなっているのだと思います。だからこそ、自分の弱さに気が滅入ったり、他人の弱さに意気を削がれたりします。そんな毎日だからこそ、自分や他人の弱さにばかり向いている目をキリストに向けようと聖書は言うのです。この方は、私たちの弱さに同情できる方だからです。

 私は「同情」という言葉があまり好きではありませんでした。自分は痛くもかゆくもないところで「かわいそう」と言ってみせる、そんなイメージがありました。しかし、聖書に出てくる「同情」という言葉は全然違っていました。ここで同情と訳されている言葉は、英語のsympathyの語源になった言葉です。「一緒に」という接頭辞が「苦しむ」という言葉にくっついています。聖書の言う同情は高みの見物ではなくて、一緒に苦しむことです。同じ痛みを苦しんでいる。それはキリストのなさったことを見れば一目瞭然です。飼い葉桶に生まれ、貧しい者や罪人と呼ばれる人の友となり、偉い人たちに憎まれ、殺されました。この方は私たちのために弱くなり、私たちのために苦しみました。それは苦しむ者の大祭司として、私たちのために祈るためです。イエスが祈ってくださっている。だから、大胆に神のおられる玉座に近づきましょう。夜泣きする赤ちゃんのように自由に、大胆に。

この記事へのコメント