2020年12月13日第三アドベント礼拝「恐れず、共に生きよ」

さがみ野教会の主日礼拝の説教動画です。第三アドベント礼拝で、三本目のロウソクに灯が点りました。

音声


動画




 もう40年ほど前に私が通っていた幼稚園では、毎年クリスマスに園児たちがページェントをやっていました。年長の時、私はヨセフの役をやりました。そのこともあってか、ヨセフという人はわたしにとってはとても気になる存在です。クリスマスの後にはあまり登場しないので名前が知られている割には目立たない人です。普通の人の一人です。しかし一人の普通の人の存在が、神さまの前でかけがえのない意味をもっています。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」ヨセフの物語はそのように始まっています。小さなころからクリスマスの話に登場するヨセフ。マリアの夫であり、イエス様のお父さん。しかし少し成長して、聖書に書いてあることの意味が分かるようになると、たいへんなことに遭遇した人だと気づきました。マリアのところに天使が来た。マリアは男の子を宿していて、その子は聖霊の力、つまり神さまご自身の力によって宿ったのだと言う。ヨセフはその話をマリアから聞いて、どう思ったのでしょうか。信じることができたのでしょうか?私がヨセフの立場だったら?……マリアの話を信じることは、かなり難しいと思います。頭では理解しようとしても、心がついていかないのではないかと思います。

 マリアの話を信じようと信じまいと、ヨセフにとって自分の子どもでないということははっきりしています。ヨセフが嫉妬に駆られてマリアを訴えれば、当時の法ではマリアは死刑でした。しかし、ヨセフはそうはしませんでした。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」私はずっと、ヨセフの決断って何なのだろうと考えていました。あるとき、マリアを殺さないためのギリギリのところでの愛情なのかなと思い、それで納得していました。しかし今年になって読んだ本の中にこの話が出てきて、その人はヨセフがマリアの縁を切ろうとしたのを愛情だと言うのは男の理屈だと指摘していました。マリアからしたらどうなのか、と問うのです。一番不安で一番心細いときにヨセフに縁を切られる。一番頼りたい人、一番話を聞いて欲しい人に見捨てられる。それがこの時のマリア…。 ヨセフは正しい人でした。ヨセフの正しさは、彼女を殺してしまえとは言いませんでした。その意味ではヨセフは優しい人と思います。しかし、彼女と一緒に生きることはできなかった。それがヨセフの正しさの限界でした。

 ヨセフのところに天使が来て、言います。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」この「迎え入れる」という言葉には、ギリシア語の辞典で調べると「連れて行く」という意味があります。神さまはヨセフに、マリアの方が不安なんだからお前がしっかりしろ、どんと構えて迎えてあげなさい、とは言いませんでした。一緒に歩け、一緒に生きろ、と言いました。不安なこと、涙を流すこと、いろんな事が起きる。しかし一緒に歩くのです。見捨てず、見放さず、共に生きるのです。

 ヨセフはこの出来事を通して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ぶ」という聖書の言葉が自分への言葉だと気づきました。神はこの私と共にいてくださる。だから私たちは互いに共に生きることができる。こうしてクリスマスの奇蹟が始まったのです。

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