2020年11月29日第一アドベント礼拝「期待して待ち望もう」

聖書:イザヤ書7:10〜15
説教題:期待して待ち望もう

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 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」毎年、アドベント、そしてクリスマスになると耳にする聖書の言葉です。インマヌエル、それは「神は私たちと共におられる」という意味です。クリスマスにお生まれになったイエスは、インマヌエルと呼ばれる方。新約聖書にそのように引用される言葉は、このイザヤ書にもともと登場しています。私の今年のクリスマスのテーマは、インマヌエルです。これからアドベントを過ごし、クリスマスを迎えるにあたって、とにかくこのインマヌエルということを言いたいのです。

 今年は、やはり辛い年でした。新しい言葉をたくさん覚えさせられました。三密とかクラスターとか、そもそもコロナウイルスという名前自体、これまで日常生活で耳にすることはありませんでした。一番私にとって強烈な言葉になったのは、ソーシャルディスタンスという言葉です。そしてこんな時代だからこそ、神は私たちと共にいられるという聖書のメッセージの尊さが、本当に私たちにとってかけがえのないものであると気づきます。思うように、自由に、共にいることができない今だからこそ、神はわれらと共におられる、インマヌエルという聖書のメッセージに耳を傾けたいのです。

 ここにはアハズというユダの王とイザヤという預言者が登場します。出来事の背景としては、当時の中近東世界は、アッシリアという超巨大な国が覇権を握っていました。そして、ユダや隣国イスラエル、アラムなどの弱小国はアッシリアの脅威の前に風前の灯だった。それで、アラムやイスラエルは他の国と連携して反アッシリア同盟を結びます。ところが、ユダの王アハズはこれには入りませんでした。それで、アラムとイスラエルがユダに責めてきてアハズ王を殺し、自分たちの意のままに動かせる別の王にすげ替えようとします。それがこの時に起きていた出来事でした。

 アラムやイスラエルの軍が責めてきて「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺」しました(2節)。すると預言者イザヤが来て、王に助言をします。イザヤは落ち着いて、静かにしているようにと言う。アラムやイスラエルの企みは実現しない。神が助けてくださる。だから神を信じよ。そしてそのしるしを神が御自らあなたたちに見せてくださる、とイザヤは言います。すると、アハズは答えました。「私は求めない。主を試すようなことはしない。」…これは「正しい」答えです。主なる神を試みてはならないと聖書は教えます。確かに正しい。しかし、この答えは神にとってもどかしいものだ、とイザヤは言います。良い子のフリをしないで、神に救いのしるしを求めたらいい、助けてと祈っていい、どうしてと訴えて良い。イザヤはそう諭すのです。

 アハズの言っていることも、私たちには分かるのではないでしょうか。こんなことを神さまに祈ったり求めたりしては悪いんじゃないか。神さま信じていると言いながらこんな不満があっちゃカッコつかないんじゃないか。アハズはこの後どうなったのか。彼は神に頼らず、アッシリアに頼る道を選びました。短期的にはイスラエルを追い払うことに成功しましたが、長期的にはこの判断がユダの信仰を曲げ、滅亡への路を突き進むことになってしまいました。神さまを信頼することも期待することもない冷たい心が、結局は一番大事なものを失ってしまったのです。

 私たちは、しるしを求めて良いのです。救いのしるしを。むしろ神に執拗に求め、訴え、嘆いていいのです。助けてと訴え、苦しいと叫び、悲しみの涙を神の前に流していいのです。神さまを求める私たちに、神さまはしるしを下さいます。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」私たちは知っています。この男の子が一体誰なのか。イエス・キリスト。この方は神が私たちと共にいてくださるという事実のしるしです。私たちは苦しみの中、悲しみの中で神を求める。神はそういう私たちの「なぜ?」という嘆きの中で共にいてくださるからです。

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