2020年11月22日「かつて、そして今も」

聖書:ヨハネによる福音書8:48~59
説教題:かつて、そして今も

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 ユダヤ人たちがイエスに言います。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか。」二重の意味で問題を含んだ発言です。一つには、明確にイエスを侮辱する意図を持った言葉です。イエスの言葉に聞くことを拒絶しました。59節まで進むと、それは殺意となり、彼らはイエスに投げつけるために石を握りしめます。そしてもう一つの問題は、そもそも「あなたサマリア人」という言葉が侮辱になると思っている点です。サマリア人の先祖はかつてはユダヤ人と同じ国を構成していました。しかし王国は分裂し、その後サマリア人の先祖は他国民と交わり、宗教的にも筋を曲げた、とユダヤ人は見なしていました。サマリア人を見下していたのです。「お前はサマリア人だろう」というここに書かれたユダヤ人の言葉には、ヨハネが福音書を書いた時代の教会の事情も反映していると学者は言います。恐らく、ヨハネの教会にはサマリア人のキリスト者もいたのです。ユダヤ人はそのことで教会を責めた。ヨハネが福音書を書いた時代、すでにユダヤの国は消滅していました。たいへんな苦難の時代でした。余裕のある平時の時代ならばまだ表面化しないで済むような攻撃性や差別感情が、非常時になるとむき出しになります。ストレスが多くイライラが募ると、社会全体が病気のようになります。

 「お前はサマリア人で、悪霊に取りつかれている」と言われたとき、主イエスはすぐに悪霊に取りつかれているという方は否定しましたが、サマリア人についてはコメントしませんでした。「それは違う、誤解だ、私はサマリア人ではない」とは言わなかったのです。ただ、「私は父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」と言われます。イエスを重んじる、イエスの言葉を守るとは何を意味するのか?この福音書で、主イエスが私たちに伝えているメッセージは、独り子をお与えになるほどの神の愛です。そして神の愛に基づいて、私たちが互いに愛し合うことです。「お前はサマリア人だろう!」というのと対照的な言葉を、イエスは語り続けてきました。わたしは今この状況の時に今日のこの御言葉が与えられたことに不思議な思いを持っています。平時であればごまかし、隠せてしまうわたしの愛の欠如や、差別や憎しみ、怒り、そういうものがむき出しになってしまっていることを日々感じます。冷めた愛がイエスに石を投げて殺そうという怒りに発展していく。

 だからこそ、神の愛を告げるイエスの言葉に立ち帰り、これを守ることが救いなのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」とイエスは言われました。この言葉を聞いてユダヤ人はますます怒りました。悪霊に取りつかれていると更に確信しました。イエスの言葉を守れば死を味わわないですむだなんて、正気な人間の言葉とは思えない、と。確かに尋常ならざる言葉です。福音書を読み進めるとイエスは「わたしを信じる者は死んでも生きる」とまで言われる。私たちは全員死にます。葬式のとき、しかし牧師はこの言葉を読みます。「わたしを信じる者は死んでも生きる」。私が死んでも神の愛は変わらず、私たちを死から救うからです。

 イエスは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。ユダヤ人はその言葉を受けて、「あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う」と言います。微妙に違います。イエスは「死なない」と言われましたが、ユダヤ人は「死を味わうことがない」と受けます。「味わう」は経験するという意味の言葉です。死を経験することがない、とはイエスは言われませんでした。私たちは死ぬのです。病気にもなる。私たちは弱い。しかし「死ぬことはない」。イエスが「死なない」と言った言葉は、直訳すると「死を見ることがない」という言葉。イエスの言葉を信じ、それを守る者は死を見ることがない。死を見つめ、絶望を見つめてそこに没入することはない。

 アブラハムについて、イエスは「私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」と言う。アブラハムは死を見つめ、絶望の中に沈み込むのではなくイエスを見つめた。イエスを見つめ、喜んで自分の死の日をも迎えたことでしょう。イエスが現した神の愛は私の死によって揺らぐことがないからです。この方はアブラハムの前にもおられ、アブラハムと共におられ、今私たちと共におられる。この方が現した神の愛が私たちを救うのです。

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