2020年11月15日「どうして、私らしく生きられないの?」

さがみ野教会の主日礼拝の説教の様子をお届けします。
今回はマシントラブルで動画を撮ることができませんでした。静止画と音声を合わせたものです。ポッドキャストの音声も同じ内容です。

来週はキチンと動画を録画できるようにいたします。

聖書:ヨハネによる福音書8:37〜47
説教題:どうして、私らしく生きられないの?

音声


動画




 とても厳しい言葉が記されています。主イエスは目の前にいるユダヤ人たちに対し、あなたたちは確かにアブラハムの子孫ではあるが、実際の生き方はアブラハムの子とは言えない、と言われます。アブラハムの子であるならアブラハムの業を行うはずなのに、あなたたちは自分たちの父の業を行っている。自分たちの父とは誰か?ユダヤ人は、私たちはアブラハムの子だと主張します。アブラハムの子というのは、神を信じる民の一員だ、という意味です。しかし、主イエスは、実際にあなたたちが行っている業はアブラハムの子という実態を兼ね備えていない、却って悪魔の子の業だと言わないわけにはいかない、と言われるのです。なぜなら、あなたたちは神の真理を私から聞いて私を殺そうとしているから。主はそう言われる。

 どんなに良いことを言っても、自分に自信があろうとも、実際の生き方はどうなのか?神の真理を殺す生き方をしていないか?言葉では嘘をつけても、実際の行いでは嘘をつけません。

 例えば、電車に乗っていて隣の人が咳でもしようものなら、以前はそういうことはなかったのに、今ではとても怖くなってしまう。できるだけ離れようとする。熱を出している人が怖い。やたらと執拗に手を洗わないと気持ち悪い。何でもないような小さな事です。しかし、主イエスの言動とは矛盾するように感じます。実際的な生き方での愛が問われる。一つひとつを突き詰めて考えると、はっきり言って、主イエスが邪魔になってきます。そんなことを言っては生きていけないと思ってしまう。

 主イエスは言われます。「わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない」と。イエスが語る真理が邪魔なのです。主が語る真理とは何か?この第8章の文脈で考えると、この章の冒頭には姦淫の女が登場していました。主イエスは姦淫の罪を犯したひとりの女を罪に定めず、赦しました。キリストの無限の赦し、神の無限の愛。それが主イエスが語る真理です。主イエスは汚れた人と清い人を区別なさらない。神に遣わされて来たイエスの業は神の愛そのものです。神の愛に基づいて、実際に生きておられる。それは、イエスが神のところから来られたからです。

 しかし、神の真理を殺すなら、それは悪魔から出た行いです。悪魔というと、貧困なわたしのイメージではすぐにマンガ的な悪魔のような気がしてしまいますが、そんな呑気な話ではありません。キリストの語る愛や赦しの言葉を疎んじるというのは、例えば誰かを非難しながら自分の正義感に燃えるときに起きています。本当は善を望んでいるのに、望む善は行わずに望まない悪を行っている。悪口が快感だからです。主イエスは、それを単なる失敗とは言われないのです。悪魔から出たところで犯す罪の業だと言われます。自分の心がけや力ではどうすることもできない悪魔的な罪の力に捕らわれているとしか言いようがない。

 アブラハムの業、と言っていました。アブラハムは実際にどういう業に生きたのか?彼は清廉潔白な人ではありませんでした。わが身のために妻を犠牲にし、側女とその子を追い出したこともあります。たくさんの罪を犯しました。しかし彼は失敗を重ね罪を犯しながら、その度に神の許に帰りました。神のもトニカ選って悔い改める人でした。神の真理によってしか救われようのない自分だということだけを知っていたし、こんな私を救う神の真理を信じていたのです。私たちは信じて初めて赦され、愛されるのではありません。どうしようもない、禍々しい私を神が裂きに愛し、赦してくださったのです。これこそ神の真理。私たちを自由にする真理です。

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