2020年11月8日夕礼拝

さがみ野教会の主日礼拝(夕礼拝)の説教動画です。
11月8日の朝の礼拝は成長感謝礼拝で、説教は子ども向けのお話しでした。この動画の夕礼拝では大人向けの内容になっています。

聖書:ルカによる福音書10:25〜37
説教題:隣人になる


音声


動画




 「では、私の隣人とは誰ですか」という律法の専門家の問いへのイエスの答え。それは「あの人だ、この人だ」と言ったり、そもそも隣人とは何かという説明をしてみせたりするのではなく、一つの物語を聞かせることでした。「憐れみ深いサマリア人」と呼ばれる、主イエスのなさった物語です。

 ある人がエルサレムからエリコに降る途中で追い剥ぎに襲われ、服も盗られた上に半殺しの目に遭いました。しばらくしてそこを通りがかった祭司が倒れたその人を見て、道の向こう側をとおり、またレビ人も同じように道の向こう側を通って過ぎ去ってしまいました。ところがそこに旅をしていたサマリア人が通りがかります。彼は側に来ると、彼を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。さらに翌日、宿屋の主人に金を渡して言います。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」そこで、主イエスは律法の専門家に問います。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」答えは明らかです。

 律法学者と主イエスとのやりとりは、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができますか」という律法学者の問いから始まりました。イエスはそれに対し、「律法には何と書いてあるか」と尋ねる。すると、律法学者は神を愛することと隣人を自分のように愛することを定めた律法の言葉を挙げます。そうやって始まった対話だということを考えると、実は、最初の律法学者の議題設定自体が不適切なものであったことに気づきます。彼は神と隣人を愛することが大事だということは知っていました。しかしそれは、永遠の命を得るための手段でした。永遠の命という報酬を得るための愛。彼にとっての愛はとても利己的な動機から始まるものです。そもそもそれは愛なのかと問われるべきなのかもしれません。

 このようなことを考えても良いかも知れません。この譬え話の中で、律法学者はどこに登場しているのか。祭司長か、レビ人なのか。そうかもしれない。しかし、主イエスはこの譬え話に、追いはぎに襲われて半死半生で倒れている惨めな人も登場させました。大けがをして裸のままで捨てられ、このままでは野犬にでも食われて死ぬかもしれない。惨めです。この惨めな姿は私の姿ではないか。利己的な愛は惨めなのです。この律法学者やこの私は、惨めなけが人なのではないかと思います。

 というのも、このサマリア人について、主イエスは「憐れに」思ったと言っている。この動詞はちょっと可哀想に思うというのではなく、腹がちぎれるほどの苦痛を表します。福音書の中では神か主イエスが主語の時にしか使われない言葉です。それで、このサマリア人はイエス・キリストご自身ではないかと言われてきました。私もそう思います。イエスは自分で自分を助けられない惨めな私を見て憐れに思った。そして、助けてくれたのです。主イエスの憐れみと愛は、まったく利他的です。何の計算も損得勘定もありません。私の愛は利己的で、結局他人を自分のしあわせのための手段にしてしまうものでしかない。しかしそんな惨めなわたしのところに駈け寄って救ってくださったのは、キリストです。キリストの憐れみにふれたとき、私にも他者のための愛が生まれるのです。

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