2020年11月1日「真理はあなたたちを自由にする」

聖書:ヨハネによる福音書8:31~38
説教題:真理はあなたたちを自由にする

音声


動画




 「自由」という言葉が繰り返し登場しています。
 打ち明け話をおゆるしください。昨夜、説教の準備がなかなか進みませんでした。夜になって、それまで見ていなかったとても良い参考書があることが分かり、本棚から出してきていざ読もうとページを開きだしたときのことです。家族に、毎晩している就寝前の祈りをすると呼ばれました。大切な時間であることは分かっていましたが、内心渋々そこに行きました。早く自由になりたかった。下の娘が寝っ転がって駄々をこねました。私は怒鳴りました。とにかく、早く自由になりたかったのです。祈りが終わって説教の準備に戻り、読みかけの例の本を開きました。すさまじい空しさと自己嫌悪に陥りました。祈りを蔑ろにしておいて説教準備をしたいだなんて、そもそも言い訳できないほど間違っています。そして、子どもを怒鳴って早く終わらせて、私は本当に自由になったのでしょうか。違います。私は自分のスケジュールとイライラした感情の奴隷でした。いや、もっと精確に言わねばならない。私は罪の奴隷でした。

 「真理はあなたたちを自由にする」と主イエスが言われたとき、そこにいた人々はムッとしました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」あなたたちを自由にするという言葉の言外に「あなたたちは今自由ではない」という言葉を聞き取ったのです。自由なつもりで本当は不自由な彼らの姿は、私そのものです。主イエスは更に「あなたたちは私を殺そうとしている」と指摘します。それは憎しみの奴隷であり、怒りの奴隷です。どうしてそのようなことになってしまったのか。彼らの出発点は「私たちはアブラハムの子です」という自意識でした。私たちは神を信じている、だから大丈夫と思っていました。しかしもしかしたら神を信じているから大丈夫というのは一番やっかいな自意識かもしれません。自分が小さな神さまに成り代わってしまう。

 私たちは一体どうしたら自由になれるのでしょうか。自分を出発点に据えると、抜けようがない迷路にはまってしまいます。昨夜私が開いた本はイーヴァントという人の本でした。こんな言葉がありました。「彼の言葉のうちに『とどまる』者とは、彼がその人のうちに『とどまっていてくださること』を発見する者のことである。そのような者こそ“本当に”彼の弟子なのである。」私がいかにしてイエスの言葉のうちにとどまってしっかりやれるかが勝負なのではありません。本当はそれとは逆で、イエスが私のうちに留まっていてくださる。出発点は私ではなく主イエスなのです。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。真理によって、あなたたちは自由を獲得できるではない。真理が自由にする。そうであるならば、真理とは何か?真理とは、イエスこそ私たちが信じる神の子という事実のことです。神の子であるイエスが、罪の奴隷であった私たちを神の子にしてくださる。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

 10月31日は宗教改革記念日でした。ルターが95ヶ条の提題を教会の門扉に貼り出した日。ルター自身も思わぬことだったに違いありませんでしたが、その日から教会改革、信仰改革が始まっていくことになりました。95ヶ条の最初のテーゼは次の通りです。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」ここでルターは主イエスを師と呼びます。イエスは私たちの師匠、私たちはこの方の弟子です。弟子を自由にしてくださる師匠、自由の師匠です。
 ルターは3年後に『キリスト者の自由』という名著を書きました。この本はこのようなテーゼから始まります。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。」私たちは自由です。キリストが自由にしてくださいました。その自由は私たちが自分の好きなように振る舞ったり、感情をすっきりしたりするための機会ではありません。むしろ、そういう罪からの自由です。
 ルターはこの本で続けて第二のテーゼを掲げています。「キリスト者はすべての者に仕えることのできる僕であって、だれにでも服する。」一見すると主イエスの今日の言葉に反しているようですが、葬でないことは明らかです。私たちは隣人を愛するための自由に召されました。へりくだる自由に私たちは生きる。もちろん、へりくだってあげる、愛してあげる、などということではありません。愛してあげるというのは、結局は自分が出発点にいます。だから、傲慢でしかなくなってしまう。そうではなく、キリストの真理が私の内に留まっていてくださる。その事実が出発点です。私のために身をかがめて、足を洗ってくださったイエス。私たちもキリストの愛に生きる自由へと、今日、招かれています。

この記事へのコメント