2020年10月18日「命の光、ここにあり」

聖書:ヨハネによる福音書8:12~20
説教題:命の光、ここにあり

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 仮庵祭の恐らく最後の夕刻の出来事であろうと思います。仮庵祭では毎日、昼間には祭司が毎日泉から水を汲んで来ていた。それを御覧になりながら、主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。主イエスこそまことの生きた命の水をお与えになる方と宣言した。また、仮庵祭では、毎日夕刻になると神殿の婦人の庭と呼ばれている場所で四つの金の燭台で火が灯されていたそうです。主イエスは火が灯される祭りの中で、「わたしは世の光である」と言われます。イエス・キリストこそ、夜の闇を照らすまことの光。主イエスはそのように宣言さなさった。
 私の光の原体験ともいうべき体験は、少年時代のボーイスカウトの夜に灯した光でした。まだ春先、寒い時期の野営は、夜になると暗くて寒くて惨めです。そこに光があり、手元が照らされているとそれだけで心強くなります。イスラエルの民の光の原体験は、エジプトから脱出した40年の荒れ野の旅のときの出来事です。神さまは彼らを昼は雲の柱、夜は火の柱によって先だって導き、進むべき道を照らしました。仮庵祭の夜の灯はこの火の柱を象徴していたのだそうです。

 荒れ野の旅は決して平坦ではなかったと思います。自分たちの道が暗闇の中にあるという思いを繰り返し抱いたのではないでしょうか。この時期に、民のための祈ることを務めとしていたアロンという人に、神さまが民のための祝福の言葉を授けてくださいました。「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように」と告げるのです。神の御顔の光によって、あなたが照らされますように。神さまの光の中にいることほど確かな祝福はありません。詩編第4編は眠れない夜の祈りです。苦しい思いを何度も神さまに吐露しながら、やがてこのように祈り願います。「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」最後、この詩編は言います。「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。」夜の闇の中でも神の御顔の光に照らされていることに気づいたとき、私たちは平安の中で眠ることができるのです。

 「わたしは世の光である。」イエスは宣言なさいます。この「わたしは〜である」というのは特別な言い回しです。神さまにしか口にできない。ヨハネでは6:20に「わたしだ」と主イエスが言っておられるとこで登場します。このときもやはり夕暮れから夜の時間に、弟子たちが湖で漕いでいた舟が逆風に遭い、どうすることもできないときに主イエスが来て「わたしだ」と言ってくださった。それと同じ表現です。つまり、「私は世の光である」というのは、私があなたを照らす神の御顔の光だということに他ならないのです。

 人びとはそれを受け入れられませんでした。自分でそう言っているだけだろう、と。闇夜にうずくまる者は光が来ても光を受け入れようとはしない。主イエスは暗闇の中に潜む私たちに対峙なさっている。私たちの闇に向き合っておられる。教皇フランシスコは、今私たちはコロナよりも悪質なウイルス、無関心なエゴイズムというウイルスに冒されていないかと問うています。主イエスはその私たちを照らす光。この光に照らされて、わたしたち自身が今や命の光を持つ者にされています。

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