2020年10月11日「キリストはあなたを罪に定めない」

聖書:ヨハネによる福音書7:53~8:11
説教題:キリストはあなたを罪に定めない

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 一昨日金曜日のローズンゲン(日々の聖句)はイザヤ書49:4とⅠコリント15:58でした。イザヤ書だけここに書きます。「わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り、虚ろにむなしく力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。」疲れ果て、力が尽きても神が守ってくださる、必ず上手く行くときが来る。そう読むこともできそうですが、ドイツ語版のローズンゲンにはこの聖書の言葉に第三のテキストとしてボンヘッファーの言葉が載せられています。「私どもの挫折の時とは、これまで聞いたことがないほどに、神が近くにおられるということです。遠くにおられるなどということではないのです。」挫折の時にこそ神は近くにおられると言っています。神が遠くにいて無視しているから失敗するというのではありません。そうであるなら、思いが果たされないというのは聖なる体験なのかもしれません。

 今日の聖書の御言葉を読んで、そういう思いを新たにしました。主イエスが福音を語っているところに、律法学者やファリサイ派の人々がひとりの女を連れて来た。彼女は姦通の現場で捕まったといいます。律法では石打にされる。彼らはそれを指摘し、イエスにどう考えているのかと質した。殺せと言えば「今までのイエスの話は何だったのか」ということになるし、殺すなといえば「律法を無視するのか」ということになる。巧みな罠です。イエスは答えず、屈んで地面に何かを書いておられる。しかし彼らがあまりしつこいので、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた。すると、年長者から始まって、一人また一人といなくなり、最後に残ったのはイエスと女の二人だけになった。

 二人を取り巻いていた群衆の気持ちは私たちにもよく分かります。最初、イエスの話を喜んで聞いていたにちがいない。そこにやってきた偉い先生たちと一人の女。聞けばこの女は姦通を犯したという。とんでもない女だ。石打になるべきだと先生たちは言う。多少可哀想だが、そういうルールなのだからしかたがない。分かっててやったことなのだ。責任をとるべきだ。彼らは正義に燃えていました。それは私たちがテレビを見たりスマホを手に取って世間を騒がせる人間を目にしたときと同じ気持ちなのだと思います。正義の名の下に、迷惑な女を追い出したのです。

 正義はやっかいです。正しいからやっかいです。正義のために人を裁くことは正しい。人を裁くのは快感です。何しろ、相手は間違っているのだから。数日前にある国の大統領がコロナに感染したというニュースが世界を駆け巡り、批判を浴びました。確かに彼の行動にはたくさんの疑問がありますが、病気になったことを責めてはいけないのだと思います。むろん、病後の配慮は必要です。しかしそれでも、自分の心に正義という錦の御旗が立っていることにぞっとします。

 イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われます。なお問いが残る。こんなに簡単に赦してしまって、社会秩序は保たれうるのか?教会は長い時間をかけて問い続け、気づきました。そうやって赦されたから、私も生きることができたのだ、と。自分の正義に基づく私たちの営みは挫折する。ここにキリストがおられるからです。キリストの憐れみの世界に私たちは招かれています。

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